陵水黎族自治県三才鎮 后石村

       

 日本軍が海南島に侵入してから2か月後、1939年4月17日深夜、共産党員が隠れているとして后石村を日本軍が襲撃し、子どもをふくむ多くの村人を殺した。
 1941年夏から、日本軍は、后石村で飛行場建設を始めた。日本軍は、后石村の土地を奪い、建設用地内に住む住民の家を壊した。建設工事には、福建、広西、広東などから「労工」が連れてこられた。「朝鮮報国隊」の人びとも働かされた。おおくの人が死んだ。死んだ人たちは万人坑に埋められた。飛行場完成前に日本は敗北した。



旧日本軍用井戸跡
向かって左側に、鉄条網で囲まれた 「朝鮮報国隊」と「台湾報国隊」の宿所があったという。

飛行場跡遠景      
     

后石村飛行場近くに残っている日本軍施設跡
使用目的不明
「万人坑」の追悼碑
(「紀念被日冦殺害之同胞 受難同胞永垂不朽」)
王關文さん(1918年生)
 「事務所で殴り殺すんだ。
死体を荷車に乗せて万人坑に運ぶのを何回も見た。
 病気にかかって死んだ人は解剖した。
解剖するのも日本人。
 万人坑の近くにあった小さな草葺きの小屋で解剖した。
焼き殺された人もいた」。
 

 虐殺現場で証言する龍起義さん
  「ここで、日本軍は、1939年に、村人50人ぐらいを殺した。銃剣でも殺した。日本刀でも殺した」。
龍起義さん(1926年生)
 「この近くに、日本軍の建物があった。
門に‘海南島海軍施設部陵水工事事務所’という木の板がかかっていた。
 朝鮮人が住んでいたところには、門に‘朝鮮報国隊’、台湾人が住んでいたところには‘台湾報国隊’と書かれた木の板がかけられ、鉄条網で囲まれていた。
 朝鮮人も台湾人も全部男で、20歳から30歳くらい。青い服を着ていた。
見張っている人間がいつもいるので罪人だと思っていた」。
楊光蒙さん(1938年生)
 
楊光蒙さん
 「あの時、2才だった。わたしを抱きかかえていた母が刺し殺された。体に血がついていた。
 父は茘枝溝の鉱山に連れて行かれ、そこで死んだ。
  父が死んだことは、生きて帰ってきた人から聞いて知った。わたしが4才のときだった」。  
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